(オリジナルFB投稿:2018年8月9日)
作業の手をやすめ、脳の手綱を放し、幽体離脱のような状態でいると、イギリスに居た頃の体験が色々な形で繋がってきたのを興味深く、観察できました。
宗教、音楽、政治、そして日本のグローバル化という文脈で繋がるのですが、一度には書けないと思うので、少しづつ。脈絡のないお話になるかもしれませんが、ご容赦ください。
私が11歳から16歳まで住んでいたのは、ロンドン郊外、サレー州にあるヒンチリー・ウッド(Hinchley Wood)という眠たい町でした。ここから車で20分ぐらいのところには、近隣で一番メジャーな観光スポットである、ハンプトンコート宮殿がありました。
ハンプトンコートは13世紀にヨハネ聖騎士団の荘園として開発されたものですが、16世紀にはトマス・ウルジー(ヨーク大司教)からヘンリー8世が、取り上げるような形で贈呈を受けます。
ヘンリー8世は、6度結婚し、そのうちの一人は処刑してしまったという、強力な権力をもち、また、その好色性のためにローマ・カトリック教会と決別し、イギリス国教会を創った人であった、といった程度の認識しか、中学生の私は持っていませんでした。
6度の結婚も、カトリック教会との国教分離も、今となってはより深い背景を、あれこれ考える事ができます。内戦(薔薇戦争)で不安定な国政を女性に任せることはできないと考え、後継ぎに男の子を希望した故の離婚(皮肉なことに、彼を継いだエドワード6世は夭折し、イギリスの黄金時代を築くことになるのはヘンリーが処刑したアン・ブーリンの娘、エリザベスです)。教義的に離婚を許さないカトリック教会に対する不満により増大した、宗教改革の必要性への欲求(ルター、ツヴェングリ、カルヴァンも同時代人です)、大陸における思想支配(それに付随する政治、軍事力)などへの対抗策、などなど、いつの世においても当たり前である複雑な事情を想像することができます。
私は幼児洗礼を受けたカトリックなので、中学はギルフォードにあるセイント・ピーターズ(St. Peter's-現在はMerrow Grangeと合併し共学となりましたが、当時は男子校でした)に在籍していました。通学は電車とバスの選択肢があり、前者ですと、ウォータールーを始点、ギルフォード終点の線で、ヒンチリー・ウッドからロンドンロード駅まで乗りました。ロンドンロードはギルフォードのひとつ手前で、学校に近かったのですが、終点、ギルフォードで乗り降りすることもありました。
ギルフォード駅から帰路につくと、進行方向左手の丘にレンガ色の箱の集合体のような建物が目立ちます。これはギルフォード大聖堂で、イギリス国教の教会です。なんとなく違和感を感じたり、ヘンリー8世がいなければ、あそこもカトリック教会だったのか、そんなことを車窓をぼんやり眺めながら、条件反射的に思ったものです。この教会は、映画「オーメン」の舞台としても使われているもので、どこか冷たい雰囲気を感じていた私と同じような印象をロケハンのスタッフも持ったのでしょうか。
1960年代後期から70年代初期、サレー州では、イギリス国教会(アングリカン)とカトリックが血で血を洗う時代ではありませんでしたが、プロテスタントとカトリックの争いはイギリス国内、北アイルランドで激化していました。学校にも、カトリック校ですから当然のこと、アイルランド人が少なくありませんでしたが、周辺のアングリカン系の学生たちから、私たちが、宗教的迫害を受けることはありませんでした。
ギルフォードからすこし離れたところにヘイズルミィア(Haslemere)という町があったのですが、ここにはアーノルド・ドルメッチという古楽復興につくした人物一家の工房があり、中学生の私にとっては高価で買えないリュートなど中世・ルネッサンス・バロック時代の楽器が掲載されたカタログを眺めていたものです。
リュート音楽に興味を持つと、イギリスリュート音楽の黄金期と言われる時代の作曲家を知ることになります。ロバート・ジョンソン、フランシス・カッティング、ダニエル・バッチェラー。。。その中でも私が惹かれたのは、ジョン・ダウランドです。
ダウランドはエリザベス1世がアングリカンである故に、カトリックである自分は宮廷で職が得られないと嘆いたそうです。しかし、デンマークのクリスチャン4世から仕事を受けたのは、どうやら破格のギャラが大きな要因であったようです。
イギリスにおけるカトリック教徒への迫害については、次項に譲ります。
ずいぶんたくさん書いてしまいましたね(笑)
**** 思考の徘徊の印象が薄れる前に、続きを書き記しておきます。たぶん明日になったら、また別のルートの徘徊を始めて、今宵、おもしろがっている事がどうでも良くなってしまう可能性大ですので。
日本では、花火と言えば夏です。イギリスでは11月5日、ガイ・フォークス・ナイトの花火を子供たちは楽しみにします。これは1605年11月5日の、ロバート・ケイツビー率いるカトリック教徒によるジェームズ1世暗殺未遂事件(火薬陰謀事件:The Gunpowder Plot)に由来します。
計画としてはウェストミンスター宮殿内の議事堂の地下に大量の火薬を設置し、開院式に参加するジェームズ1世、および議員を爆破、殺害するというものでした。ガイ・フォークスの名前が冠されているのは、ガイが、爆薬の点火を担当しており、密告により現場である地下室で逮捕されたことからです。
ケイツビー他、イングランド在住のカトリック教徒と協力をしたのは今のベルギー、フランドルにいた、イエズス会カトリック教徒であり、フォークスもその一派に属していました。イエズス会は、その創始者のひとりに、フランシスコ・ザビエルがいます。やっと日本と繋がりましたね(笑)。
ジェームズ1世は、カトリックであり、エリザベス1世の中道政策(対スペインで、メアリー1世「Bloody Mary」による強力なカトリック弾圧により亀裂を生じた、国内統一の必要性が大きかったのでしょう)をさらに進めるものと期待されましたが、プロテスタント(アングリカン)勢力により、この流れは逆行する運びとなります。ジェームズはスペインとの和平にとって、カトリック弾圧は得策ではないと考えていたようですが、1604年に、前投稿に出てくるハンプトンコートの会議(Hampton Court Conference)にて、アングリカン優遇政策を受け入れざるを得なくなります。結果はカトリックのみに非ず、清教徒(Puritan)にとっても極めて不利なもので、ここに米国建国の種を見出すことも出来ます。ジェームズ1世暗殺の背景には、大国間の外交、経済、そして宗教という服を着せられたローマ対反ローマという政治があったのです。
日本におけるキリスト教布教は、ポルトガルとスペインの主権争いを念頭に置くと改めて色々な事が見えてきます。「主権争い」は、簡単に言えば、植民地利権の話です。天正少年使節は、ローマで歓待を受けますが、同行したヴァリニャーノが腐心したのは、この西欧覇権主義を少年たちの眼から隠すことがあったと考えています。これは、帰国後の少年たちの歩んだ道、西欧によるグローバリズムに対してどのように日本人として向き合うべきか、その違いに現れていると感じています。もちろん弾圧・鎖国により、ペリー来航まで、日本は世界から隔絶されたかのように振る舞う訳ですが、少年たちは渡欧し、抗いがたい世界の潮流を肌で感じてきたことでしょう。
最後に写真について。ガイ・フォークス・マスクは、漫画および、映画「Vフォー・ヴェンデッタ」で使われ、その後、ハッカー集団アノニマスのシンボルになりました。