• Yoji Yoshizawa

私の音楽的ルーツ(32)最終回

ルーツということで、今回が最後の投稿となります。この後も色々な音楽を勉強し続け今日に至るわけですが、私の音楽的人格形成という意味ではだいたい20歳ぐらいまでに出来上がっていると考えても良いでしょう。


クラシック音楽史観は、発展の概念に支配されています。おじいさんの時代、おとうさんの時代、それらを否定、破壊することにより自分の時代の芸術を作り上げるという発想は破綻します。壊すものがなくなってしまうんです。それを痛感させられたのが私たちの世代でしょう。すべての領域で言えることですが、歴史がベクトルを持っているという発想は必ずしも真ではありません。ゴッホをむりやり西洋美術史にはめ込むことにいかなる意味があるのか?19世紀に比べ、原始的であったはずの中世ヨーロッパの音楽が安易に演奏できると解釈できるのか?物理学におけるアインシュタインの一般相対性理論は、ニュートン物理学より進んだものなのか?

ある視座を取れば、そう言えますが、その視座自体は普遍的に採用されるべきか?と問われると、それは正しくありません。


西洋音楽史ではハーモニーの複雑化が進化の証となるので、非和声音、お父さんが絶対に忌避した音を自分は使ってやろうということを革新的とみるようになります。実践者の一部、たとえばシェーンベルグやケージのような人はこの視点を受け入れていたことが著作からうかがえますが、歴史家や評論家がこのようなものの観方を必然としていたところも大きいと思います。思想の世界ではマルクスの歴史観がいまだに正しいものであると考える人もいますし、ポール・ケネディの経済に着目した歴史も同じように「世界の時に理解可能な秩序を作る」スタンスであり、人間の理知にとっては、「理論」とならび、必要悪であるのかもしれません。

閑話休題。

ルーツの最後にご紹介するのはセシル・テイラーです。所謂、フリージャズの人であり、オーネット・コールマンと並び、その運動の牽引役を担っていたとされているピアニストです。オーネットは「Shapes of Things to Come」というアルバムタイトルから窺えるように発展的歴史観を意識していた人です。セシル・テイラーの場合はどうなんだろうと疑問を持つところです。

個人的な話ですが、セシルは「好きなように弾いている」との印象があります。脳内に浮かぶものを、ただ弾いており、また、ピアノを叩いたり、壊したりするのではなく、上手に「弾く」のです。セシルが脳内の音を実現化しているという解釈は、私の現代クラシック感とも通じています。非和声的であったり、トーナリティの無い音楽には必然性があり、それは現代人の心を表現するにあたって自然な選択をした結果なのであると。 ホイジンガの「中世の秋」は、フランス語テキストから綿密に当時の人々のプシケーを解明しようと試みます。現代人に比べ、知性に劣っていたということではまったくありませんが、生活に現代人のさらされている複雑性がなかった故の「シンプルさ」を指摘していると好意的に彼の中世人論を読んでいます。

現代人の心を表現するにあたって西洋音楽史観に支配された視座のみを採用する必要はまったくありませんし、その史観にそって進歩とすることも私は否定する立場です。これまでご紹介した「ルーツ」により、基盤が形成され、それから数十年を経て、学習したさまざまな方法論はすべて私のツールとして活用させていただきました。これからも新たな世界を発見し、若かりし頃のようにそれらの理解、習得に勤しみたいと思っています。


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