• Yoji Yoshizawa

吉澤洋治Jazz Project

最終更新: 2019年3月4日

これまで私のJazz Projectについての考えを公にしたことがなかったので、少し書いてみたいと思います。とりとめなく、言葉足らず、説明不足になるとは思いますが、眠れぬ夜に一気に書き上げる蛮行をご容赦ください m(__)m 私の音楽的ルーツのひとつはBebopやSwingといったジャズです。70年代後期にニューヨークで不思議な縁から、スタン・ケントンのアレンジャーとして有名だったジーン・ローランドのバンドに入ることになりました。すでになくなってしまった63丁目とファースト・アヴェニューの角のGregory's(グレゴリーズ)というお店で夜な夜なスタンダードを演奏していました。メンバーは10代後半の私にとってはおじいちゃんに近い年齢で、とても優しくしてくれていたのですが、「修行」はとても厳しいものでした。 まず、ピアノのルーメルがルバートで一回弾いてくれるのですが、ここでコード進行を聴きとらないとなりません。ルバートパートが終わると「1,2,3,4!」でフォービートの演奏が始まってしまうのです。必死でした。とにかく百戦錬磨の彼らのレパートリーが100としたら、私の知っていた曲数はその0・001%ぐらいだったからです。苦労させられたのは「Autumn in New York」、「Stella by Starlight」、「Skylark」、「You Stepped Out of a Dream」など不規則な転調が多い曲でした。 グレゴリーズというお店には多くのジャズマンが出入りしていました。レギュラーでは、ギターのチャック・ウェインとジョー・ピューマ、ピアノのアル・ヘイグ、ホッド・オブライアン。仕事前後に飲みに来てワイワイ一緒に騒いでくれたのはエリス・ラーキンズ、ジミー・ワームワース、そしてギターのチャックとジョーとセッションをやりにジョー・パスやジョージ・ベンソンも現れるという、今思えば魔法の空間でした。近隣のTangerineというお店では、デューク・ジョーダンが演奏しているし、バンドのとりまきに連れていかれた黒人ばかりのお店では「Lover Man」の共作者であるラム・ラミレズに紹介してもらったりもしました。 しかし、70年代後期のマンハッタンの音楽ワールドはジャズが席巻していたわけではありません。グレゴリーズから2ブロック南下するとそこには、「ハッスル」発祥の地とされたディスコ「Adam's Apple」があり、金曜・土曜の夜は、ジョン・トラボルタ風のあんちゃんたちが肩で風を切って歩いているという環境でした。 またダウンタウンには、Patti SmithやRamonesが良く出ていたCBGB&OMFUGがパンク系の若者に人気がありました。CBGBは、前座のバンドにしつこく誘われていたのですが、ジャズに傾倒していた私はお断りしました。Villageあたりでは、ソニー・スティット、モンゴ・サンタマリアといった世代の人、フリーのセシル・テイラー、ラリー・コリエルなど「フュージョン系」のプレーヤーも活躍しており、グレゴリーズのあったアッパーイーストサイドシーンより新しい息吹を感じられました。またトム・ブラウンや、高校を出たてのボビー・ブルームといった、ポップなシーンではファンクの影響を受けつつも、Bebopではアフリカ系アメリカ人の文化遺産として「純粋な」ジャズを確立したいという思想をもった若者もいました。 ポップスでは少し前にビリー・ジョエルやホール&オーツが出て来ていたり、川向うのニュージャージーに凄いやつがいると言われていたのは、いまや「Boss」と呼ばれるブルース・スプリングスティーン。。。とにかく、ありとあらゆる音楽がニューヨークの空間を満たしていたわけです。 もちろんこの空間にはクラシック音楽も含まれ、ジョン・ケージも生きており(私の母校、Middleburyに講演しに来ました)、新たなる作曲技法が模索されていた時代でもあります。 このようにジャズを勉強する「学生」ではありましたが、置かれた環境から自然と入ってくる音楽や音楽哲学は多岐にわたり、またそれまで幼少の頃からインプットされてきていたさまざまな音楽、クラシック、ロック、ポップス、歌謡曲、プログレ、ヨーロッパ民族音楽、フォーク、ハードロックなどが脳内を満たしていたわけです。 ワインで気分が良くなったチャック・ウェインや、病気療養中であまり飲めなかったジョー・ピューマからはバー・カウンターでグラスを弦に見立てて奏法を教えてもらいました。彼らの音楽には尊敬の念しかありませんが、当時からわかっていたことは、「彼らと同じ演奏をしても嘘になる」ということでした。 あの年代の人たちは、BebopやSwingがもっともヒップで、その最先端を走りながら創って着たひとたちです。その「本気」は、彼らの体、いや存在そのものから「聴こえてくる」ほど強烈なもので、また、それを裏打ちする経験や世界観は私が持ちえないものなのです。 そこで私が着目したのは「方法論」です。「何を思って、創造のベクトルを定めていたのだろうか?」 たとえばルイ・アームストロングは、チャーリー・パーカーの音楽を「あの変な中国音楽」と呼んだそうです。Bebopの系譜、クールの系譜、ウェストコーストジャズなどを実践していた人たちにとってオーネット・コールマンや、セシル・テイラー、あるいはシカゴのアートアンサンブル系の人たちの音楽はどのように感じられたのでしょう。 「ひとつの『Jazz』なんてあると思うな」というのが私の結論でした。ジャズは、「自由の方法論」なのです。この自由は集団的即興という文脈においての自由であると考え始めた時に、狭い意味でのジャンルが私にとっては意味をもたないものになりました。 もちろんそれぞれの音楽の伝統を継続して、ある程度深く勉強することの大切さは絶対に否定できません。たとえばアラカンの手習いでフラメンコを勉強していますが、フラメンコの深淵なる伝統をマスターするのではなく、理解をし、体得できる技術は体得し、それを現代の日本人である「私」の表現ツールのひとつにしたいという動機から実践するわけです。 私のJazz Projectは、こういった「思想」を実現できる環境づくりのためのものであり、ルールはシンプルです。集団的に即興で、そこにある、空気中に時間とともに消え去る音と、刹那的に生じるプレーヤーの意識、そしてその場で創造プロセスに参加していただいている聴き手とのひと時が「意味を持ち、心に残るもの」になるようにしたいのです。 言うは易し。理想と現実のギャップには常に悩まされるところですが、次回こそ、理想に近づける様にと折れない心の維持に努めています。




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